大衆ウケが分かる霜降り明星
霜降り明星は本当にすごい。優勝が決まった時、僕はテレビの前で「うおおおおお」と声を上げてしまった。大ファンというわけではないのだが霜降り明星は本当に面白くて、ことあるごとに気になるコンビだった。※1
僕はひねくれてるので「どうせラストイヤーの人とかが優勝するんだろうな」と思ってたところの最年少組の優勝で、本当に興奮した。
霜降り明星が世間的にどれだけ知名度があるのか知らないが、関西人・お笑い好きには若手芸人界の大スター、という認識である。そもそも霜降り明星のツッコミ・粗品はピン芸人としてオールザッツ漫才2013を史上最年少(19歳)で優勝している。そこから今の相方・せいやと組んで霜降り明星を結成した。(ソロで先に活躍していた、いわゆる椎名林檎パターンである。)
そんな粗品がせいやとコンビを組もうとしたところ、周囲から「せいやって誰やねん」と反対されたという。それでも徐々にコンビとしても実力を上げ、2017年にはABCお笑いグランプリで優勝している。
そのあとも歌ネタ王決定戦に出場を決めたり、実績を着実に積み上げる中でひときわすごいなと感じさせられたのは、R1ぐらんぷり2018に二人とも決勝進出を決めたことである。結果2人とも優勝は成らなかったが、そのあとの二人のネット番組を見ていて彼らがすごいなと思ったところをせっかくなので少しこの機会に書いておきたい。
そもそも彼らのピンネタはそれぞれどんな感じなのか。Youtubeなどでぜひ見てもらいたいが、まず粗品。彼は今年R1で決勝に上がる前に6回も準決勝に進出している。彼の持ちネタは「高速フリップ芸」で、フリップに描かれた変な絵に対して高速に、ひたすらツッコミを入れていく。ネタ中の彼はパジャマ姿で(精神病棟から抜け出してきたという設定らしい)時折意味の分からないフリップも登場してくる「シュールさ」が売りだった。
ピンネタをする粗品
せいやのネタのほう、これも動画を見てもらったほうが早いが空手家の恰好をしたせいやが「せ、せ、せいや!」といいながら意味の分からないことを言うリズムネタである。お笑いファン的には(僕の見解だが)このネタの醍醐味は徐々にせいやの歯止めが利かなくなりパニック状態に陥る、という点だった。
しかし、ふたを開けてみたらR1の決勝では彼らの「売り」は消えていた。粗品はパジャマ姿ではなく和服を着て「ツッコミかるた」としてフリップにツッコミを入れていき、せいやは歯止めが利かなくなることはなくただひたすら「せ、せ、せいや」と言っただけでネタを終えた。
ネット番組(「霜降り明星のパパユパユパユ」)では決勝後にあらゆる人から「前のほうがよかった」と言われた、と話していた。それに対して二人は声をそろえて、「あれじゃあ決勝には行けへんねん」と叫んでいた。
ここで、「ああこの二人は決勝で何が大事なのかわかってるんだ!」と思った。それはいわゆる「いかに笑いやすい状態をつくるか」、言ってしまえば「わかりやすさ」である。もちろんお笑いには「意味が分からなくて面白い」というジャンルがあって、それがシュールだといってもてはやされたりするけど彼らはその路線を完全に捨てたのである。特に粗品は「精神病棟から抜け出した」なんていう謎の設定を剥ぎ取ったうえでさらにもともとの持ち味である「高速」であることと親和性の高い「かるた」というモチーフを持ち出して、ひたすらフリップに早業で突っ込むことへの違和感を消し去った。せいやもリズムネタをやるうちにだんだんパニックになる、という謎のシステムはいわゆる大衆がウケるものではない、と判断したのだろう。
R1の話をしすぎたが、M1の決勝を見てもやっぱり霜降り明星の漫才はわかりやすい。※2 特に粗品のツッコミは体言止めなどを駆使してキャッチフレーズのように客のほうを向いて「ここが笑いどころですよ」とばかりにはさんでくる。実際に面白いから爆発的にウケる。
昨年・今年とM1準決勝進出した東京ホテイソンというコンビが表に出てきたときに、youtubeのコメント欄では「霜降り明星のパクリ」というコメントがちらほら見えた。東京ホテイソン・たけるのツッコミは「い~や○○の××!」と、キャッチフレーズ的に、客のほうを向いたツッコミをしている。その点では粗品と確かに似ているのだが、彼のツッコミは歌舞伎のテイストで見栄を切るように行われるように、ツッコミがメインでボケがフリになっている印象を強く受ける。だからこそ、漫才中のたけるのツッコミは時に度を超え、「い~やマイメロディの食事!」のように「ん、マイメロディの食事ってそうなの?笑」とちょっとした違和感を客に与える瞬間がある。バカリズムは「ネタパレ」で彼らの漫才を見たとき「あれツッコミではないよね笑」とコメントしていたが、確かにたけるはツッコミとボケの間を常に行き来しているような独特な感じがある。しかし逆に言えばその「結局どっちかわからない感じ」が全体量としての笑いを減らしていて決勝には行けていない、と捉えることもできる。(また、東京ホテイソンはツッコミがメインなのでボケとの間に「タメ」を作るのでどうしてもテンポは遅く、ボケの手数も少なくなるので霜降りと比べてやはり不利である)
似たような(とされている)スタイルの東京ホテイソンとは違いやはり霜降り明星はせいや の動き・歌によるボケがあくまでもメインである。ボケであるせいやはひたすら自由にボケまくり、※3 粗品は口だけでたしなめる ようにツッコんでるかと思いきやここぞ!という時はマイクに顔を近づけてキャッチフレーズのようなツッコミをする。この緩急のつけ方も流石だなぁと思いながらぼくはいつも腹を抱えて笑っている。
審査員の立川志らくが「大衆はものすごく彼らを支持する」といっていたが霜降り明星の2人は、どうしたら大衆がウケるのかをおそらく熟知している。結成5年目、まだ25,26歳のコンビである。僕とあまり歳も変わらない(僕は23歳)本当にすごい。ナイツの塙の言うように本当に「吉本の宝」だと思う。ネットではいろんな反対意見もあるだろうが、僕は心の底から同世代である、未来の大スターを応援している。
※1大ファンというわけではないので、コンビの基礎情報など記述している内容に間違いがあればご指摘をいただきたい
※2これは勝手な憶測なのだが、霜降り明星・粗品は漫才をするときかつてはルパン三世のコスプレのようなスーツを着ていた(トップ画像参照)。いわゆるこれが勝負服だったらしいのだがいつのまにか着なくなっていた。R1の衣装の話をしたが、ツッコミがルパンのコスプレをしていたら確かに意味が分からない。この「謎のこだわり」もウケには邪魔だとして排除したのかもしれない。
※3 ボケは終始ボケであり、ツッコミは終始ツッコミである、というのは決勝進出には大事な要素にも思える。いわゆる「センスのある」ところが売りの人たちは(Aマッソ、コマンダンテなど)しれっとボケとツッコミを入れ替えたりするがそのスタイルが大爆笑につながることは難しいような気がしている。「あれ?」という違和感が大爆笑につながるための笑いを少なくしてしまっているんだと思う。
何かに回収されちゃう感じ
半年間ブログを書いていなかった。これは特に理由がない。「社会人になったから忙しくて書かなかったのね」と言われればそれは間違いとは言えない。けれどこんなブログの一記事を書けないほど忙しくはなかった。
最近ブログの記事に対する、友人からの評価が下がった、というのが、「なんでブログ止めたの?」の質問に対して僕が周囲によく使っている「理由」である。でも一人で冷静に考えてみたら、そもそも他人のために書いていないこのブログの評判が悪かったとて、本当は別にどうでもいい。評判が悪かったから~~というそれは「友達用の言葉」でつくられたもので、「自分用」の理由を探してみたらそれは「無い」というのが正しい。
当たり前の話だが、物事には原因と結果がある。なにかの問題について考えるとき僕たちには、原因を突き止めて(あるいは推測して)「これは○○だから××なんだ」という理解の仕方がある。これは社会を生きる上で最も重要ともいえる、いわゆるロジカルな思考だが、一方でそれを一人の人間、自分に当てはめられたときに「いやいや、そうじゃないよ!」と言いたくなる一種の反抗精神がある。
僕はずっと「なんで○○したの?」と友人に尋ねられた時に、「それは××だよ!」と明確に答えてしまうことに抵抗があった。自分用には「△△や◇◇や、いや☆☆も・・・」と言語化できない(あるいはするには非常に時間のかかる)感情を用意しているが、他人には他人用の分かりやすい答えを用意しなければならない。
僕は文系でスポーツ新聞部に所属しながら、演劇やお笑いを見るのを趣味として大学生活を送っていた。そして大学卒業後にシステムエンジニアになったのだがそれを言うと友人に「なんで?」と質問された。僕の大学生活の内容と就職先がうまく相手の公式にはまらなかったのだろう、当然の質問だがこの時はとても困った。
もちろんこの場合、それなりの理由・回答は一応存在している。でもそれを仲の良い友人に伝えて「ああそういうことなのね」と理解されてしまう感じが単純に好きじゃない。(こういう感情が俗にいう「厨二病」的だというのならそれはそれでいい)
だからぼくはひたすらにとぼけるし、おちょける。そもそもどんな仕事に就いたのかも言わないことが多い。「どこに就職したの?」ときかれても「んーとね、NASA」とか言ってはぐらかす。なぜなら職業を答えて、それを選んだ理由を答えて、、と続けていくとどんどん相手の中で「こいつは○○だ」という、相手の常識が築き上げたカテゴリーのようなものにすっぽり回収されていく感じがある。「これはこうね、それはそうね」とパズルにピースをはめていく感じ。生身の人間に対してそれをやられるとたまらなく気持ち悪い。
「ああ、そういうことなのね。わかった」と相手の「公式」に当てはめられるともうその公式ありきで今後の会話が進んでいってしまう。マスコミに就職した人が「仕事つらい」というと、会話の相手はその人がマスコミに就職していたという知識を持ち出して「マスコミだからね~」と謎の「理解」をしめした返答をする。人が持つこの能力はコミュニケーションを円滑にする面がもちろんある一方で、なにか大事なものを見落としてしまっているような感覚がある。いわゆる一般常識のような「それはそういうものだよね」というテンプレートに「回収していく」ということの暴力性を忘れたくない。
「理解しました」というのはある段階の「終了宣言」でもある。その「終了」が次の段階へのステップとなるのなら全然いい。この記事は全体的にすこしぼやかして言ってしまっているので伝わっていないかもしれないが要は相手が僕を「理解しました」という反応を僕にみせてくるときに「ひとまず」という要素があるかどうかによって僕の相手に対する信頼度は変わる。
「ひとまずそういうことなのね」という理解をしたがらない人は、すぐに終わらせにかかる。
僕が質問に答えない、などよくわからないことをしていると「よくわからない人」として大きな何かに回収し始める。僕はそれをされたときに「ええ・・」という気持ちになる。
人と向き合うとき、結局はこういうことなんだよ みたいな明確な答えは存在しないことが多い。ぼくは「こうだよね」で始まるコミュニケーションではなくて「こうなのかな?」という探りあいのような、そのあやふやな感じをそのままコミュニケーションとして友人と続けていきたいのである。そのためには僕は質問をはぐらかしたり理由を答えなかったりしている。
でもそれが正しい答えなのかは、当然ながらわからない。
アンゴラ村長世代の芸人観
にゃんこスター・アンゴラ村長 の、去年の年末に出演した番組での発言がいまだに気になっている。
現在カップルのにゃんこスターだが、番組で「もし別れてしまったらその時は解散する」と宣言するアンゴラに、尼神インターの渚が「別れてもお笑いやらなあかんねん。芸人舐めんなよ」とツッコミを入れた。するとアンゴラは
「私は解散も人生も全部、『芸人してるな』っていうのでワクワクしてるんです。」
と返していた。これはとても印象的だった。
にゃんこスター「別れたら解散」宣言 尼神インター・渚「芸人ナメんなよ」 - エキサイトニュース(1/3)
そして、このやりとりで完全に渚とアンゴラ村長の「芸人」のとらえ方の違いが明らかになった。思い出されるのはキングコング西野とナインティナイン岡村のいざこざである。もう解決した騒動で忘れている人も多いだろうが、あれは「職業としての芸人」と「生き様としての芸人」というとらえ方の違いから起こっていた。このことについてはキングコング西野本人がわかりやすく説明している。
これを読んだらわかると思うがアンゴラは生き様を「芸人」と呼ぶ、西野と同じスタンスをとっている。
そして僕が何でアンゴラの先の発言がいまだに気になっているのかというと、
彼女と同い年くらいの「超若手芸人」は彼女のような考えの人が多いなと常々感じるからである。
(これが果たしてキングコング西野の影響なのかは分からない。
しかし今、吉本の養成所・NSC生に「目指す芸人」のアンケートを取ると西野が上位に入ってくるというのだから
少なくとも若手ほど西野の思想やスタンスに共感しやすいのだとは思う)
さて、以前キングオブコント2017について書いた記事でも少し触れたが、パーパーというコンビのあいなぷぅ(アンゴラと同じ23歳)がめちゃくちゃ面白い。
あいなぷぅ(右)
この人はお笑い芸人になりたいからではなくて、狩野英考にあこがれて狩野に会うためにマセキ芸能社に入っている。また、夢は「アニメの声優をすること」なのに、芸人をやめるつもりはないと言っているのがすごく興味深い。「声優になれよ。」って普通なら思う。
中でも僕が好きな彼女のエピソードはとある番組のオーディションで一発ギャグを求められたときに
「私は芸人じゃないので出来ません」
と言ったというものだ。(1月10日放送「冗談手帖」より)
「いやおまえ・・・芸人だろ・・・?」ってこの発言だけきいたら普通の人は思うだろうが(これこそ渚が聞いたらキレそうな発言だ)、これまでの話をふまえたら意味が分かると思う。彼女はいわゆる雛壇に出たりやギャグをするといった、(岡村や渚が支持するような)「職業的な意味での芸人ではない」ということを主張しているのだ。
もう一人今注目を浴びてきている芸人で彼女に似ている例を挙げるとペコリーノというコンビのクロコダイル・ミユ(22)である。
クロコダイルミユ(左)
ペコリーノはまだ二人とも学生なのに吉本にスカウトされ、最近もちょくちょくテレビに出演している実力派男女コンビ。
そしてミユは大学のお笑いサークルのマネージャーで、相方の植木に誘われてたまたま組んだらウケた、というところから芸人になっているのであいなぷぅと同じように「お笑いのことはよくわからない」というスタンス。
夢は「映画とシャンプーのCMに出ること」らしい。
今挙げた人たちは、「面白いことの一環」として漫才やコントをしているだけであって賞レースなどで結果を出すことに固執していない。おそらく今の若手芸人(30代くらい)の理想の成功像として描いているような「賞レース決勝orネタ番組→雛壇・バラエティで活躍→冠番組でMC or コメンテーター」みたいなコースを目指してはいない。
そこがアンゴラ村長世代(20代前半くらい)の超若手芸人の面白いところである。
もちろんこの世代の全員が全員がそうではない(実際いまピックアップしてみたら女の子ばっかだし)が、僕は個人的にこういう人たちがどうなっていくのか、非常に興味がある。
特に僕が好きなナイチンゲールダンスというコンビのヤス(24)は馬鹿よ貴方はの新道のトークライブに登場した際、新道から「目標はM1優勝?」ときかれたときに「決勝いけたらうれしいけどそこは別に」と答えている。そして、自身の夢は
「いろんな国籍の人を乗せた海賊船をつくって世界を回ること」
だ
と語っていた。決してボケで言っているのではない(彼はツッコミである)。
全然理解できない。
でもだからこそ、すごく面白い。
※ナイチンゲールダンスのヤスとアンゴラ村長は学生時代、イベントで一回コンビを組んでいる
知り合いのためのブログって絶滅したの?
2018年になったしここで改めて言っておきたいのだけれど、この「カルアミルクしか知らない」というブログは、いわゆる「僕のツイッターの長文ver」であり、
決して世に溢れているブロガーの人たちのような、何かの感想についてまとめた有意義なものではない。
「どうでもいいことをグダグダ言いたいけど140文字じゃ足りなくね?」
「ツイキャスにしても自分 話すの下手だし文章でちょっとまとめてみたくね? 」ってことをただ書いている、
いわば「自分のためだけど一応知り合いに開かれている」ブログである。
でも中学生の頃とかを思い出してみると、特に同級生の女の子とかはよくそういうブログを書いていたように思う。
ふと気になったんだけど、一体あれはなんのためだったんだろう、当時ツイッターとかなかったからきっと今のツイッターとかインスタ的な扱いだったのか。あとミクシィとかってみんなどういう風に使ってたのか(僕は使ったことがない)とか、全くわからないので僕と同い年くらい(現在21〜25歳)の人は教えて欲しい。
今、僕の友達で、友達に向けたブログをやっている人を知らない。でも僕としては素人が一般の人に向けてブログを書いても競合相手が多すぎるというか、あまり価値を提供できる気がしない。
それは、友達相手だったら価値があるというよりかは、自分が普段思っていることとかをわりときちんと文章にして残して見れるようにしておくということは、会ったときの話題のタネになるというだけでも意味があると思うし、「ブログ読んどけば会わなくてもいいや」って思われたとしてもそれはそれでいい気もする。(僕がその程度の人間だということだ)
とにかく自分の好きなこととか考えていることとか、「直接会って話すにはどうしようもないこと」をとりあえず友人間で閲覧可能な状態にしておく、というのはもっとみんながやってもいいことじゃないかなと思う。
ブログに書くほどではないとしても、ツイッターにしても僕の友達にはあまり呟いている人がいない。そういう人たちに「もっとつぶやけばいいのに」って僕が言うと「自分のどうでもいい話とか誰も興味ないでしょう」ってよく返してくるのだが、
ならたまーに君たちが呟く「◯◯に行ってきました」「今日は◯◯を食べました」みたいなのには興味を持ってくれてる、と思ってるのか? と思う。基本的に興味を持つかどうかは他人がきちんと決めて取捨選択してくれて、最悪ミュートとかブロックをしてくれるので(現に僕は部活の同期や後輩の何人かにツイッターアカウントをブロックされている)自分はとにかく好きなことを垂れ流しとけばいいのである。そしたらたまに「それ実は俺も…」みたいに意外なところから話題が発生して、今までになかった交流が生まれるかもしれない。それはとても素敵なことだと思う。
初詣で村上春樹を思い出した
突然だが「村上春樹の小説は日本的である」
という話を紹介したいと思う。
村上春樹の物語の大きな特徴として
「理由が語られない」というのがある。
村上春樹の小説では基本的に妻や親友が突然失踪したり、謎のミッションを謎の人物から与えられたりしてストーリーが動いていき、結局その理由は最後まで語られない、みたいなことが多い。(おそらく「村上春樹はつまんない」と言う人が不服に思ってるのはこの点なんだと思う)
でも、この「核の部分が分からないまま物語が動く」というのは村上春樹の発明で、以降日本の純文学ではこの構造が多く取られるようになった、と評論家の渡辺直巳が言っていた。
例えば僕が好きな小説で辻仁成の「海峡の光」という芥川賞受賞作がある。この小説は刑務所が舞台で、看守の視点でかつて看守をいじめてた同級生の不可解な行動が描写されるわけだが、最後までこの同級生の行動の理由は分からないままで終わる(個人的にその描写が好きなので一度読んでみてほしい)
おそらくこういう小説は純文学として括られる現代小説ではあふれ返っているのだけれど、渡辺直巳いわくこの「核がよく分からない」という構造は非常に日本的だという。
その根拠はロラン・バルトという哲学者が「表徴の帝国」で述べた日本文化論にある。そこでは、ヨーロッパの都市の中心には必ず聖堂や広場があって「どこが中心か見て分かる」のに対し、東京の中心の皇居には森だけの「何もない」空間が広がっていることに言及されている。他にも俳句などの例を持ち出して、日本には「中心が空虚」で意味から解放されている文化があるということが語られている。
したがって村上春樹の小説は、「日本文化を規定している無意識的な構造そのままである」、ということらしい。
この話を知った時にはなるほどと思った。
そしてこの話を思い出したのは、タイトルにあるが
「核がよく分からない」構造のミニチュア版とも言える「御守り」を初詣の時に見たからである。
冷静に考えてみたら中身に何が入ってるか分からないものを大事にずっと身につけられるのって凄いと思う(もちろん小さい頃好奇心にかられて中身を見ようとした人もいると思う。僕もその1人である)
ただ大事なものは見えない方が神聖な感じがするというのは確かにあるし、日本人的な感覚なんだろうなと思う。
ちなみにこの話を友達にしたときに
「結局、核の部分がよく分からない…」っていう部分で「お前そのものじゃん」って言われました。
はい。
ウーマンラッシュアワーの漫才を見て思ったこと
先日 話題になった「THE MANZAI」でのウーマンラッシュアワーの社会風刺ネタについて書いておこうと思います。
純粋にかっこよくて僕はとても好きな漫才なのですが、まあ批判も多いのもわかります。
でも、彼らの漫才を見て感じたことを言っておきたいと思います。
↓ここから
「社会風刺のお笑いは日本には少ないから凄い」というのはあまり正確ではない気がする。
あの漫才の良かったところは
「謙虚さ」にある。
まだ彼らの漫才を見ていない人はぜひ見てほしい。どういうネタだったかの詳しい説明は省こうと思う。
ネタでは 福井の人、沖縄の人、熊本の人などにスポットが当てられていた。被災者などいわゆる立場の弱い人に目を向けられていたところが印象的だった。
「風刺なんてビートたけしとか爆笑問題とかしてんじゃん 風刺しただけで騒ぐなよ」と嘲笑ってる人は的外れだと思う。風刺してたこと自体は別にそこまで重要じゃない。
なぜ、立場の弱い人にスポットを当てるのが素晴らしいかというと、そもそも芸人とは江戸時代からずっと社会的弱者(アウトサイダー)だったから。
江戸時代からずっと差別の対象だった芸人は1970年代を経て、80年代のマンザイブームをきっかけに(そのきっかけをつくったのが「THE MANZAI」である)芸人の地位は圧倒的に向上した。
「芸以外何もできない」から世間からひどい扱いを受けていた人種がスターになる時代になった。だから今の偉い芸人には「謙虚さ」がない。
松本人志は 豊田真由子に暴行された秘書に対して「秘書がわざと怒るように誘導したんでしょ?」「秘書の説明セリフが気になりました」と豊田真由子を擁護し、体罰の問題も「昔は良くてなぜ今はダメか」と体罰側に立っている。被害者の気持ちを考えるという点において 彼は非常に鈍い。
松本人志が安倍首相と会食して批判されたが そこはどうでもいい。右翼の松本がダメでリベラルの村本が偉い という問題ではない。
ただ芸人は偉くなっても弱い人の味方であって欲しいという気持ちが、個人的にある。それはお笑いの歴史からだけじゃなく、多くの人を笑わせることができる人に求める、僕の純粋な理想だ。
とある作家が「もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。
(中略) 壁の側に立つような作家の作品にどのような価値があるのでしょうか。」という有名な言葉を残している。
お笑い芸人もそうであってほしい。
80年代に芸人の地位向上とともに日本のバラエティに生まれたのは「いじめ的な」空間である(この問題についてはまた後日ちゃんと書きたい)
下の人 をいじることで笑いを生んできた「上の人」は自分自身が進んで怪我をして下の側に立つことは少ない。
いじめ的な空間を代表する番組(「みなおか」や「めちゃイケ」)が次々と終了しはじめている現在、
ウーマンラッシュアワーの漫才をきっかけに「卵の側」に立つ「偉い」芸人が増えることを願う。
M-1 グランプリ 2017 について
今日行われる、M1 グランプリ2017について書いておこうと思います。
ルール変更について
優勝を予想すること
各出場者への個人的な感想
まとめ
最後まで読んでくれた方ありがとうございました。