ウーマンラッシュアワーの漫才を見て思ったこと
先日 話題になった「THE MANZAI」でのウーマンラッシュアワーの社会風刺ネタについて書いておこうと思います。
純粋にかっこよくて僕はとても好きな漫才なのですが、まあ批判も多いのもわかります。
でも、彼らの漫才を見て感じたことを言っておきたいと思います。
↓ここから
「社会風刺のお笑いは日本には少ないから凄い」というのはあまり正確ではない気がする。
あの漫才の良かったところは
「謙虚さ」にある。
まだ彼らの漫才を見ていない人はぜひ見てほしい。どういうネタだったかの詳しい説明は省こうと思う。
ネタでは 福井の人、沖縄の人、熊本の人などにスポットが当てられていた。被災者などいわゆる立場の弱い人に目を向けられていたところが印象的だった。
「風刺なんてビートたけしとか爆笑問題とかしてんじゃん 風刺しただけで騒ぐなよ」と嘲笑ってる人は的外れだと思う。風刺してたこと自体は別にそこまで重要じゃない。
なぜ、立場の弱い人にスポットを当てるのが素晴らしいかというと、そもそも芸人とは江戸時代からずっと社会的弱者(アウトサイダー)だったから。
江戸時代からずっと差別の対象だった芸人は1970年代を経て、80年代のマンザイブームをきっかけに(そのきっかけをつくったのが「THE MANZAI」である)芸人の地位は圧倒的に向上した。
「芸以外何もできない」から世間からひどい扱いを受けていた人種がスターになる時代になった。だから今の偉い芸人には「謙虚さ」がない。
松本人志は 豊田真由子に暴行された秘書に対して「秘書がわざと怒るように誘導したんでしょ?」「秘書の説明セリフが気になりました」と豊田真由子を擁護し、体罰の問題も「昔は良くてなぜ今はダメか」と体罰側に立っている。被害者の気持ちを考えるという点において 彼は非常に鈍い。
松本人志が安倍首相と会食して批判されたが そこはどうでもいい。右翼の松本がダメでリベラルの村本が偉い という問題ではない。
ただ芸人は偉くなっても弱い人の味方であって欲しいという気持ちが、個人的にある。それはお笑いの歴史からだけじゃなく、多くの人を笑わせることができる人に求める、僕の純粋な理想だ。
とある作家が「もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。
(中略) 壁の側に立つような作家の作品にどのような価値があるのでしょうか。」という有名な言葉を残している。
お笑い芸人もそうであってほしい。
80年代に芸人の地位向上とともに日本のバラエティに生まれたのは「いじめ的な」空間である(この問題についてはまた後日ちゃんと書きたい)
下の人 をいじることで笑いを生んできた「上の人」は自分自身が進んで怪我をして下の側に立つことは少ない。
いじめ的な空間を代表する番組(「みなおか」や「めちゃイケ」)が次々と終了しはじめている現在、
ウーマンラッシュアワーの漫才をきっかけに「卵の側」に立つ「偉い」芸人が増えることを願う。