花火とダンス

僕は今年の夏、生まれて初めて花火大会に行った。

もちろん、花火自体は見たことある(あるに決まってんだろ)。

ただ、ディズニーランドみたいな遊園地であがるような「装飾的な打ち上げ花火」は見ても、「花火を見ることそれ自体を目的としたイベント」には行ったことがなかった、ということ。

単純に行く機会がなかっただけで、別に花火が嫌いなわけではない。
でも僕はいつからか花火大会というものに少し違和感を持っていた。
このことについて説明したい。

ちなみに、今年はたまたま友人に誘われて、隅田川の花火大会に行ってきた。今から説明する違和感のために気は乗らなかったけどちゃんと行ってきた。そして花火大会はちゃんと楽しかった。

話を戻して、
僕の花火大会への違和感の原因はというと、言ってしまえば
「花火を見ても『凄い』としか思えない」というところにある。

わからないのである。

きっと毎年花火職人さんは江戸時代から受け継がれている技術で より良いものを作ろうとしているだろうに、「スターマイン*1がどうだ」みたいな、花火の質を細かく享受できないもどかしさがある。

そして
僕はこれと全く同じ感じを「ダンス」にも抱いていることに最近気づいた。
ダンスも、演劇や音楽の中で行われるものとしては楽しく受け入れられるのに、ダンスそのものを見るとなると、「すごい」(あとは「キレがすごい」)くらいの感想しか持てないことをまざまざと感じさせられ、もどかしくなってしまう。
花火を見ても、ダンスを見ても、映画や小説や音楽と違って、「自分の人生や考えに照らし合わせて、自分のなかに落とし込める」というコンテンツの受容がしづらい。

でも、それは僕だけではないと思う。
基本世間一般的に、花火もダンスも、批評が必要なものと見なされていないのだ。現に花火やダンスの専門誌も存在していない。
後ろめたさを感じる必要などないのだと思う。

ただ。

ここでようやく主題に戻ってくるが、
「花火大会への違和感」とは、
「みんなめっちゃ花火見に行くじゃん」
ということだ。

ダンスの方は、
ダンスをやっている人でなければ、「ダンスを見るのが好き」という人は少ないだろう。ダンスの「見る専」なんて聞いたことがない。(いたらごめんなさい)

でも花火はみんな律儀に見に行く。
花見のように「桜というかまあ飲みたいし」みたいな、盛り上がり目的要素も比較的少なく、みんなちゃんと花火を見に行く。
若い人たちはインスタのせいもあるのかもしれないけど、もう「慣習」みたいなものだ。
それでも僕は 伝統的な 祭り と違って その時々の「作り手の意思」みたいなものが花火にはあるような気がしてしまい、そこを完全に無視して夏になったら毎年ヘラヘラ花火大会に行くのに違和感を覚えてしまっていた。

以上が 僕の 花火大会(ダンス)についての意見なのだが、
先日音楽ジャーナリストの柴那典さんがトークイベントで音楽評論について語っていて、同じように「花火は批評が必要だと見なされていない」ことを述べていて驚いた。

彼がなぜ 音楽評論の話題で 花火大会を持ち出したのかというと、
「ロックフェス」をGoogleのトレンド検索機能で調べたところ、トレンドの推移のグラフが 「花火大会」の結果と酷似していたという。そこから彼は「ロックの花火大会化」が起きているのではないかと語った。
つまり、ロック、音楽市場はコンテンツよりもイベントの方が経済的な影響が大きくなっていることで フェス=批評の必要のないもの との見方が浸透してきている、と。

この指摘の重要なところは、これまでの批評は 何度聴いても同じ音楽の「中身」を評論するものだったが、これからはその場限りの、「コンテンツとコミュニケーション」への批評が必要なのではないか、ということを示していることだ。

音楽に関して言えば、フェスに限らず、カラオケで歌われている音楽のデータを見ることで何か社会の風潮のようなものに対して言えることがあるだろう。

そのことを踏まえると、これからは 花火もダンスも、「僕らがどう関わっているか」という視点においては、
充分批評の対象として取り組んでいくべきものなのかもしれない。

*1:打ち上げ花火の種類の一つで、煙火玉や、星、笛等を順序よく配置し、速火線で連結し、高速で次々と連続して打ち揚げるもの。(Wikipediaより)

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