アンゴラ村長世代の芸人観
にゃんこスター・アンゴラ村長 の、去年の年末に出演した番組での発言がいまだに気になっている。
現在カップルのにゃんこスターだが、番組で「もし別れてしまったらその時は解散する」と宣言するアンゴラに、尼神インターの渚が「別れてもお笑いやらなあかんねん。芸人舐めんなよ」とツッコミを入れた。するとアンゴラは
「私は解散も人生も全部、『芸人してるな』っていうのでワクワクしてるんです。」
と返していた。これはとても印象的だった。
にゃんこスター「別れたら解散」宣言 尼神インター・渚「芸人ナメんなよ」 - エキサイトニュース(1/3)
そして、このやりとりで完全に渚とアンゴラ村長の「芸人」のとらえ方の違いが明らかになった。思い出されるのはキングコング西野とナインティナイン岡村のいざこざである。もう解決した騒動で忘れている人も多いだろうが、あれは「職業としての芸人」と「生き様としての芸人」というとらえ方の違いから起こっていた。このことについてはキングコング西野本人がわかりやすく説明している。
これを読んだらわかると思うがアンゴラは生き様を「芸人」と呼ぶ、西野と同じスタンスをとっている。
そして僕が何でアンゴラの先の発言がいまだに気になっているのかというと、
彼女と同い年くらいの「超若手芸人」は彼女のような考えの人が多いなと常々感じるからである。
(これが果たしてキングコング西野の影響なのかは分からない。
しかし今、吉本の養成所・NSC生に「目指す芸人」のアンケートを取ると西野が上位に入ってくるというのだから
少なくとも若手ほど西野の思想やスタンスに共感しやすいのだとは思う)
さて、以前キングオブコント2017について書いた記事でも少し触れたが、パーパーというコンビのあいなぷぅ(アンゴラと同じ23歳)がめちゃくちゃ面白い。
あいなぷぅ(右)
この人はお笑い芸人になりたいからではなくて、狩野英考にあこがれて狩野に会うためにマセキ芸能社に入っている。また、夢は「アニメの声優をすること」なのに、芸人をやめるつもりはないと言っているのがすごく興味深い。「声優になれよ。」って普通なら思う。
中でも僕が好きな彼女のエピソードはとある番組のオーディションで一発ギャグを求められたときに
「私は芸人じゃないので出来ません」
と言ったというものだ。(1月10日放送「冗談手帖」より)
「いやおまえ・・・芸人だろ・・・?」ってこの発言だけきいたら普通の人は思うだろうが(これこそ渚が聞いたらキレそうな発言だ)、これまでの話をふまえたら意味が分かると思う。彼女はいわゆる雛壇に出たりやギャグをするといった、(岡村や渚が支持するような)「職業的な意味での芸人ではない」ということを主張しているのだ。
もう一人今注目を浴びてきている芸人で彼女に似ている例を挙げるとペコリーノというコンビのクロコダイル・ミユ(22)である。
クロコダイルミユ(左)
ペコリーノはまだ二人とも学生なのに吉本にスカウトされ、最近もちょくちょくテレビに出演している実力派男女コンビ。
そしてミユは大学のお笑いサークルのマネージャーで、相方の植木に誘われてたまたま組んだらウケた、というところから芸人になっているのであいなぷぅと同じように「お笑いのことはよくわからない」というスタンス。
夢は「映画とシャンプーのCMに出ること」らしい。
今挙げた人たちは、「面白いことの一環」として漫才やコントをしているだけであって賞レースなどで結果を出すことに固執していない。おそらく今の若手芸人(30代くらい)の理想の成功像として描いているような「賞レース決勝orネタ番組→雛壇・バラエティで活躍→冠番組でMC or コメンテーター」みたいなコースを目指してはいない。
そこがアンゴラ村長世代(20代前半くらい)の超若手芸人の面白いところである。
もちろんこの世代の全員が全員がそうではない(実際いまピックアップしてみたら女の子ばっかだし)が、僕は個人的にこういう人たちがどうなっていくのか、非常に興味がある。
特に僕が好きなナイチンゲールダンスというコンビのヤス(24)は馬鹿よ貴方はの新道のトークライブに登場した際、新道から「目標はM1優勝?」ときかれたときに「決勝いけたらうれしいけどそこは別に」と答えている。そして、自身の夢は
「いろんな国籍の人を乗せた海賊船をつくって世界を回ること」
だ
と語っていた。決してボケで言っているのではない(彼はツッコミである)。
全然理解できない。
でもだからこそ、すごく面白い。
※ナイチンゲールダンスのヤスとアンゴラ村長は学生時代、イベントで一回コンビを組んでいる
知り合いのためのブログって絶滅したの?
2018年になったしここで改めて言っておきたいのだけれど、この「カルアミルクしか知らない」というブログは、いわゆる「僕のツイッターの長文ver」であり、
決して世に溢れているブロガーの人たちのような、何かの感想についてまとめた有意義なものではない。
「どうでもいいことをグダグダ言いたいけど140文字じゃ足りなくね?」
「ツイキャスにしても自分 話すの下手だし文章でちょっとまとめてみたくね? 」ってことをただ書いている、
いわば「自分のためだけど一応知り合いに開かれている」ブログである。
でも中学生の頃とかを思い出してみると、特に同級生の女の子とかはよくそういうブログを書いていたように思う。
ふと気になったんだけど、一体あれはなんのためだったんだろう、当時ツイッターとかなかったからきっと今のツイッターとかインスタ的な扱いだったのか。あとミクシィとかってみんなどういう風に使ってたのか(僕は使ったことがない)とか、全くわからないので僕と同い年くらい(現在21〜25歳)の人は教えて欲しい。
今、僕の友達で、友達に向けたブログをやっている人を知らない。でも僕としては素人が一般の人に向けてブログを書いても競合相手が多すぎるというか、あまり価値を提供できる気がしない。
それは、友達相手だったら価値があるというよりかは、自分が普段思っていることとかをわりときちんと文章にして残して見れるようにしておくということは、会ったときの話題のタネになるというだけでも意味があると思うし、「ブログ読んどけば会わなくてもいいや」って思われたとしてもそれはそれでいい気もする。(僕がその程度の人間だということだ)
とにかく自分の好きなこととか考えていることとか、「直接会って話すにはどうしようもないこと」をとりあえず友人間で閲覧可能な状態にしておく、というのはもっとみんながやってもいいことじゃないかなと思う。
ブログに書くほどではないとしても、ツイッターにしても僕の友達にはあまり呟いている人がいない。そういう人たちに「もっとつぶやけばいいのに」って僕が言うと「自分のどうでもいい話とか誰も興味ないでしょう」ってよく返してくるのだが、
ならたまーに君たちが呟く「◯◯に行ってきました」「今日は◯◯を食べました」みたいなのには興味を持ってくれてる、と思ってるのか? と思う。基本的に興味を持つかどうかは他人がきちんと決めて取捨選択してくれて、最悪ミュートとかブロックをしてくれるので(現に僕は部活の同期や後輩の何人かにツイッターアカウントをブロックされている)自分はとにかく好きなことを垂れ流しとけばいいのである。そしたらたまに「それ実は俺も…」みたいに意外なところから話題が発生して、今までになかった交流が生まれるかもしれない。それはとても素敵なことだと思う。
初詣で村上春樹を思い出した
突然だが「村上春樹の小説は日本的である」
という話を紹介したいと思う。
村上春樹の物語の大きな特徴として
「理由が語られない」というのがある。
村上春樹の小説では基本的に妻や親友が突然失踪したり、謎のミッションを謎の人物から与えられたりしてストーリーが動いていき、結局その理由は最後まで語られない、みたいなことが多い。(おそらく「村上春樹はつまんない」と言う人が不服に思ってるのはこの点なんだと思う)
でも、この「核の部分が分からないまま物語が動く」というのは村上春樹の発明で、以降日本の純文学ではこの構造が多く取られるようになった、と評論家の渡辺直巳が言っていた。
例えば僕が好きな小説で辻仁成の「海峡の光」という芥川賞受賞作がある。この小説は刑務所が舞台で、看守の視点でかつて看守をいじめてた同級生の不可解な行動が描写されるわけだが、最後までこの同級生の行動の理由は分からないままで終わる(個人的にその描写が好きなので一度読んでみてほしい)
おそらくこういう小説は純文学として括られる現代小説ではあふれ返っているのだけれど、渡辺直巳いわくこの「核がよく分からない」という構造は非常に日本的だという。
その根拠はロラン・バルトという哲学者が「表徴の帝国」で述べた日本文化論にある。そこでは、ヨーロッパの都市の中心には必ず聖堂や広場があって「どこが中心か見て分かる」のに対し、東京の中心の皇居には森だけの「何もない」空間が広がっていることに言及されている。他にも俳句などの例を持ち出して、日本には「中心が空虚」で意味から解放されている文化があるということが語られている。
したがって村上春樹の小説は、「日本文化を規定している無意識的な構造そのままである」、ということらしい。
この話を知った時にはなるほどと思った。
そしてこの話を思い出したのは、タイトルにあるが
「核がよく分からない」構造のミニチュア版とも言える「御守り」を初詣の時に見たからである。
冷静に考えてみたら中身に何が入ってるか分からないものを大事にずっと身につけられるのって凄いと思う(もちろん小さい頃好奇心にかられて中身を見ようとした人もいると思う。僕もその1人である)
ただ大事なものは見えない方が神聖な感じがするというのは確かにあるし、日本人的な感覚なんだろうなと思う。
ちなみにこの話を友達にしたときに
「結局、核の部分がよく分からない…」っていう部分で「お前そのものじゃん」って言われました。
はい。
ウーマンラッシュアワーの漫才を見て思ったこと
先日 話題になった「THE MANZAI」でのウーマンラッシュアワーの社会風刺ネタについて書いておこうと思います。
純粋にかっこよくて僕はとても好きな漫才なのですが、まあ批判も多いのもわかります。
でも、彼らの漫才を見て感じたことを言っておきたいと思います。
↓ここから
「社会風刺のお笑いは日本には少ないから凄い」というのはあまり正確ではない気がする。
あの漫才の良かったところは
「謙虚さ」にある。
まだ彼らの漫才を見ていない人はぜひ見てほしい。どういうネタだったかの詳しい説明は省こうと思う。
ネタでは 福井の人、沖縄の人、熊本の人などにスポットが当てられていた。被災者などいわゆる立場の弱い人に目を向けられていたところが印象的だった。
「風刺なんてビートたけしとか爆笑問題とかしてんじゃん 風刺しただけで騒ぐなよ」と嘲笑ってる人は的外れだと思う。風刺してたこと自体は別にそこまで重要じゃない。
なぜ、立場の弱い人にスポットを当てるのが素晴らしいかというと、そもそも芸人とは江戸時代からずっと社会的弱者(アウトサイダー)だったから。
江戸時代からずっと差別の対象だった芸人は1970年代を経て、80年代のマンザイブームをきっかけに(そのきっかけをつくったのが「THE MANZAI」である)芸人の地位は圧倒的に向上した。
「芸以外何もできない」から世間からひどい扱いを受けていた人種がスターになる時代になった。だから今の偉い芸人には「謙虚さ」がない。
松本人志は 豊田真由子に暴行された秘書に対して「秘書がわざと怒るように誘導したんでしょ?」「秘書の説明セリフが気になりました」と豊田真由子を擁護し、体罰の問題も「昔は良くてなぜ今はダメか」と体罰側に立っている。被害者の気持ちを考えるという点において 彼は非常に鈍い。
松本人志が安倍首相と会食して批判されたが そこはどうでもいい。右翼の松本がダメでリベラルの村本が偉い という問題ではない。
ただ芸人は偉くなっても弱い人の味方であって欲しいという気持ちが、個人的にある。それはお笑いの歴史からだけじゃなく、多くの人を笑わせることができる人に求める、僕の純粋な理想だ。
とある作家が「もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。
(中略) 壁の側に立つような作家の作品にどのような価値があるのでしょうか。」という有名な言葉を残している。
お笑い芸人もそうであってほしい。
80年代に芸人の地位向上とともに日本のバラエティに生まれたのは「いじめ的な」空間である(この問題についてはまた後日ちゃんと書きたい)
下の人 をいじることで笑いを生んできた「上の人」は自分自身が進んで怪我をして下の側に立つことは少ない。
いじめ的な空間を代表する番組(「みなおか」や「めちゃイケ」)が次々と終了しはじめている現在、
ウーマンラッシュアワーの漫才をきっかけに「卵の側」に立つ「偉い」芸人が増えることを願う。
M-1 グランプリ 2017 について
今日行われる、M1 グランプリ2017について書いておこうと思います。
ルール変更について
優勝を予想すること
各出場者への個人的な感想
まとめ
最後まで読んでくれた方ありがとうございました。
僕は多趣味ではない
僕は「多趣味」って言われることがよくある。友達だけじゃなくても、初対面の人に「なにがお好き?」ときかれて「お笑いをみるのと、映画、小説、音楽聴くのも演劇も好きです」と言うとまあ「多趣味ですね」って言われる。
こんな答え方するからだからかもしれないけど、本当のことを言えば実際 全部同じくらい好き。だからそう答える。よくお笑いが際立って好きって思われがちなんだけど、お笑いが一番コスパ良いから結果的にお笑いを一番観て、そんでお笑いに一番詳しくなっちゃっただけ感はある。好きな度合いはそこまで差がなかったりする。
だからこそ、僕は自分が「多趣味」って自覚はなくて、「多趣味」と言われることに違和感をずっと抱いていた。
とりあえず趣味の言葉の意味を気になってネットで調べたらデジタル大辞泉で
「 仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。」
って出てきた。まあじゃあ僕は一応定義的には「多趣味」ではあるのか。
でも「ちょっと待て」と思う。お笑いも演劇も小説も音楽も全て「受信」、いわば「コンテンツ消費」であって 僕はあまり区別をつけていない。もちろんそれぞれの媒体じゃないと伝わってこないものがあるからそれぞれに触れているのだけど、実際自分の行動というか、態度に変化はない。だから僕は「コンテンツ消費」という一つの趣味しか持っていない気がしてならない。
じゃあどういうのが「多趣味」なのかというと、「それぞれ態度が異なるもの」なんじゃないかという考えに行き着いた。例えば、「映画鑑賞と家庭菜園とテニスです」。こういうのが「多趣味」じゃないか?!
コンテンツ消費、生産行動、体を動かすor勝負モノ、とそれぞれの態度がバラバラだ。
もっと極端な例を言えば、「音楽を聴くことと演奏すること」は、触っているものは同じでも「二つの趣味」で、「音楽聴くことと映画観ること」は他のジャンルに触れているようにみえるが「趣味は一つ」なんじゃないか。
趣味の数なんてどうでもいいだろうと思うかもしれないけど 、もし「多趣味」が褒め言葉として使われるのであれば、
僕がいま定義した「多趣味」の方が採用されるべきだ。尊敬されるべきは「あらゆるジャンルにとりあえず消費者として触っている奴」ではなくて「態度を多様に持っている奴」だ。
僕はそう思う。
キングオブコント2017
キングオブコント2017について、
放送前に少しだけ個人的な解説をしてみたい。
今年の出場者は
・ジャングルポケット
・さらば青春の光
・かまいたち
・アキナ
・アンガールズ
・GAG少年楽団
・わらふぢなるお
・ゾフィー
・パーパー
・にゃんこスター
の10組。
個人的に5組ずつ分けました。ぶっちゃけて言うと前半が有名組、後半が無名組です。
まずは前半について。
ジャングルポケットは
「去年準優勝だし、今年も準決勝でめっちゃウケてたらしいしもう優勝するんじゃね。」って感じ。
さらば青春の光 と アキナ と かまいたち は賞レース常連組。
さらば に関してはキングオブコント決勝5回目。もうバケモノだと思う。
アンガールズは去年初めてキングオブコントに出場し、今年ついに決勝に来たのでちょっと話題になった。
アンガールズは、超有名なのに単独ライブをやるとチケットがすぐ売れないので「ネタのイメージをつけたい」と出場を決めたらしい。そのために彼らは地下の小さいライブに参加していてお笑いファンからの好感度が高い。
まあどうなるのかなって感じ。
後半。
ゾフィーは「日本一面白いフリーのコント師」と言われていて、コアなファンが多い。ただ僕はあまり見たことがないので詳しく語れない、残念。
GAG少年楽団とわらふぢなるお
の2組はいわゆる「苦労人枠」で、過去でいうところのバイきんぐ や ライス のように、芸人仲間からずっと面白いと言われ続けるも結果が出てこなかった人たち。
過去の例もあるので優勝のイメージがないこともないが個人的には、彼らにはあまり爆発力がないので優勝しないんじゃないかなと思っている。
さて、
パーパー と にゃんこスター。
2組とも大会史上初の男女コンビであり、
この2組が個人的には今大会最注目のコンビ。
特に にゃんこスター はヤバイ。
「ヤバイ」としか言えないのは放送を見てもらったらなんとなく伝わると思うのでぜひにゃんこスターだけでも見て欲しい。
(ちなみに、今大会一番爆発力があるのは このコンビで、優勝はしなくともツイッターのトレンド入りはほぼ間違いない)
にゃんこスター というのはそもそも厳密にはコンビ ではなく、大会のために組まれたサブユニットみたいなもので、2人は元々はピンで活動している。
男のスーパー3助 は、地下ではそこそこ有名なピン芸人で、フリップネタをする もう中学生だと思ってくれればいい。
女のアンゴラ村長 は 僕と同い年。
暇アフタヌーンというコンビで学生のお笑い界で活躍した後そのままプロになるも、今年解散をしてピンになった、結構かわいい感じの女の子。芸人をやりながらも会社員として働いている。後に説明するパーパーの女の子もアンゴラ村長の1歳年上で、芸人が本業ではなく声優になるために活動しているというから、「新しい世代」という感じがする。
パーパーは、
結成3年目、
23歳と28歳の若手コンビ。
男の星野ディスコ(Perfumeが好きでチョコレイトディスコから取ったらしい)のキャラが強いが、ネタの構成がしっかりしている点が、バイきんぐ を彷彿とさせる。
キングオブコントの公式サイトでは不仲だと紹介されているが、ガチらしい。
さて、10組を紹介し終わったが、
まとめると、
「にゃんこスター を 見ろ」
「僕は パーパー を推してる」
です。
それでは。
追記
誰が優勝するかはわかりません。
ジャンポケでいいんじゃないですか(適当)