初詣で村上春樹を思い出した

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突然だが「村上春樹の小説は日本的である」

という話を紹介したいと思う。

 

村上春樹の物語の大きな特徴として

「理由が語られない」というのがある。

村上春樹の小説では基本的に妻や親友が突然失踪したり、謎のミッションを謎の人物から与えられたりしてストーリーが動いていき、結局その理由は最後まで語られない、みたいなことが多い。(おそらく「村上春樹はつまんない」と言う人が不服に思ってるのはこの点なんだと思う)

 

でも、この「核の部分が分からないまま物語が動く」というのは村上春樹の発明で、以降日本の純文学ではこの構造が多く取られるようになった、と評論家の渡辺直巳が言っていた。

例えば僕が好きな小説で辻仁成の「海峡の光」という芥川賞受賞作がある。この小説は刑務所が舞台で、看守の視点でかつて看守をいじめてた同級生の不可解な行動が描写されるわけだが、最後までこの同級生の行動の理由は分からないままで終わる(個人的にその描写が好きなので一度読んでみてほしい)

 

おそらくこういう小説は純文学として括られる現代小説ではあふれ返っているのだけれど、渡辺直巳いわくこの「核がよく分からない」という構造は非常に日本的だという。

 

その根拠はロラン・バルトという哲学者が「表徴の帝国」で述べた日本文化論にある。そこでは、ヨーロッパの都市の中心には必ず聖堂や広場があって「どこが中心か見て分かる」のに対し、東京の中心の皇居には森だけの「何もない」空間が広がっていることに言及されている。他にも俳句などの例を持ち出して、日本には「中心が空虚」で意味から解放されている文化があるということが語られている。

 

したがって村上春樹の小説は、「日本文化を規定している無意識的な構造そのままである」、ということらしい。

 

この話を知った時にはなるほどと思った。

そしてこの話を思い出したのは、タイトルにあるが

「核がよく分からない」構造のミニチュア版とも言える「御守り」を初詣の時に見たからである。

冷静に考えてみたら中身に何が入ってるか分からないものを大事にずっと身につけられるのって凄いと思う(もちろん小さい頃好奇心にかられて中身を見ようとした人もいると思う。僕もその1人である)

ただ大事なものは見えない方が神聖な感じがするというのは確かにあるし、日本人的な感覚なんだろうなと思う。

 

 

 

 

ちなみにこの話を友達にしたときに

「結局、核の部分がよく分からない…」っていう部分で「お前そのものじゃん」って言われました。

 

はい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウーマンラッシュアワーの漫才を見て思ったこと

先日 話題になった「THE MANZAI」でのウーマンラッシュアワーの社会風刺ネタについて書いておこうと思います。

純粋にかっこよくて僕はとても好きな漫才なのですが、まあ批判も多いのもわかります。

でも、彼らの漫才を見て感じたことを言っておきたいと思います。

 

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↓ここから

 

「社会風刺のお笑いは日本には少ないから凄い」というのはあまり正確ではない気がする。

 あの漫才の良かったところは

「謙虚さ」にある。

 

 まだ彼らの漫才を見ていない人はぜひ見てほしい。どういうネタだったかの詳しい説明は省こうと思う。

 

 ネタでは 福井の人、沖縄の人、熊本の人などにスポットが当てられていた。被災者などいわゆる立場の弱い人に目を向けられていたところが印象的だった。

「風刺なんてビートたけしとか爆笑問題とかしてんじゃん 風刺しただけで騒ぐなよ」と嘲笑ってる人は的外れだと思う。風刺してたこと自体は別にそこまで重要じゃない。

 

なぜ、立場の弱い人にスポットを当てるのが素晴らしいかというと、そもそも芸人とは江戸時代からずっと社会的弱者(アウトサイダー)だったから。

江戸時代からずっと差別の対象だった芸人は1970年代を経て、80年代のマンザイブームをきっかけに(そのきっかけをつくったのが「THE MANZAI」である)芸人の地位は圧倒的に向上した。

「芸以外何もできない」から世間からひどい扱いを受けていた人種がスターになる時代になった。だから今の偉い芸人には「謙虚さ」がない。

 

松本人志豊田真由子に暴行された秘書に対して「秘書がわざと怒るように誘導したんでしょ?」「秘書の説明セリフが気になりました」と豊田真由子を擁護し、体罰の問題も「昔は良くてなぜ今はダメか」と体罰側に立っている。被害者の気持ちを考えるという点において 彼は非常に鈍い。

 

松本人志が安倍首相と会食して批判されたが そこはどうでもいい。右翼の松本がダメでリベラルの村本が偉い という問題ではない。

 

ただ芸人は偉くなっても弱い人の味方であって欲しいという気持ちが、個人的にある。それはお笑いの歴史からだけじゃなく、多くの人を笑わせることができる人に求める、僕の純粋な理想だ。

 

 とある作家が「もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。

(中略) 壁の側に立つような作家の作品にどのような価値があるのでしょうか。」という有名な言葉を残している。

お笑い芸人もそうであってほしい。

 

 80年代に芸人の地位向上とともに日本のバラエティに生まれたのは「いじめ的な」空間である(この問題についてはまた後日ちゃんと書きたい)

下の人 をいじることで笑いを生んできた「上の人」は自分自身が進んで怪我をして下の側に立つことは少ない。

 

いじめ的な空間を代表する番組(「みなおか」や「めちゃイケ」)が次々と終了しはじめている現在

ウーマンラッシュアワーの漫才をきっかけに「卵の側」に立つ「偉い」芸人が増えることを願う。

 

M-1 グランプリ 2017 について

今日行われる、M1 グランプリ2017について書いておこうと思います。

 

 

ルール変更について

今年、決勝戦のルールが変わって、ネタ順が放送中に決まることになりました。
今までは、順番はあらかじめ発表されていて、敗者復活戦の勝者は途中で発表されてファーストラウンドの最後にネタを行う、という形式。
今年、敗者復活の勝者は冒頭に発表はれ、全10組揃ってからネタ順が決まります。
これは、今まで密かに囁かれていた「敗者復活戦上がりが有利説」を解消する目的があるのではないかと思っています。
現に過去の例を見てみると、2007年以降、M1グランプリではすべての敗復上がり組が決勝ラウンドに進出し、上位につけています。(2007のサンドウィッチマン、2015のトレンディエンジェルが敗復から優勝)
これについてネットでは
「敗復組が最後に高得点を取ると盛り上がるからだろ」的な意見が多く見受けられ、そういう面ももしかしたらあるのかもしれないけれど、
サンドウィッチマンが「順当に上がってたら緊張して優勝できなかったと思う」と述べていたように、ある種捨て身の姿勢が漫才に良い結果として出て、それが審査員の高評価につながっているのかもしれません。
 

優勝を予想すること

正直 優勝の予想 は ほとんど意味がないと思っていて、それは漫才の大会は「ネタ順」と「ネタ」に大きく左右されるからです。
ネタ順に関しては上述したように、事前に決定していません。
たとえば、こと賞レースにおいてトップバッターは基準点になるのでとても不利です。M1(THE MANZAI)でトップバッターで優勝したのは初代チャンピオンの中川家のみです。(ゆえに彼らが伝説として語り継がれている感はあります)
また、インパクトや癖の強い漫才は正統派の後に行われた方が面白く感じるので、これもはじめの方だと不利です。
たとえば、M12015 では メイプル超合金がトップバッター、馬鹿よ貴方は が2番目で 前者が7位、後者が8位 でしたが、彼らがもっと後の方だと総合順位は確実に大きく変わっていたと思います。
今大会で言えば、インパクトの強い マヂカルラブリーさや香 は始めに出ちゃうとウケないと思います。
そして「ネタ」に関して言えば、キングオブコントでは準決勝でやったネタをやらなければいけないというルールがありますがM1にはありません。観客の雰囲気を見て、直前に芸人がネタを変えたというエピソードも多々あります。
どのネタをやるかわからないので、余計に予想がしにくいです。
マヂカルラブリーさや香に関してはどのネタも似たようなものですが、 かまいたちジャルジャル はネタの幅が広いので チョイスが重要になってくると思います。
ちなみにネタのチョイスはとても重要で、準決勝でウケたネタを決勝でやって大コケした例が過去にいくつかあります。(あえて誰とは言いませんが)それは準決勝はお笑いファンが大勢(200人くらいかな)集まるのに対し、決勝はお笑いファンでもない人が少数だけみるという、ほとんど別競技になっているからです。
そう考えると去年、さらば青春の光 が 予選では徹底して新しいネタをやり、決勝では別の漫才大会の決勝でも披露した、わかりやすい代表ネタとも言える「能やん」を披露したのはさすがだと言えます。
 

各出場者への個人的な感想

以上の理由から、予想はあまり意味がないと言えると思いますが、最後に一応 M1 2017の決勝進出者について個人的な感想を言います。
 
 
こういうとき、「吉本ばっかり(非吉本はカミナリのみ)なので敗復は非吉本だな!(今回で言えばハライチか三四郎?)」みたいなことを言う人がいるんですが、これが結構当たったりするので怖い。。
それは置いといて、意外と初出場が多い( ゆにばーす、とろサーモンマヂカルラブリー、ミキ、さや香)
その中でもとろサーモンは今年でM1にでれるのが最後(結成15年目)でずっと準決勝に来ていたのでなんとなく報われてほしい感じはあります。
とろサーモンミキ は 後半たたみかけるのが上手いのでネタが客にちゃんとハマると強いと思います。
ゆにばーす は個人的に好きなんですが女の子ウケが良いイメージがあまりなくてM1の観覧客にどれだけ受けるのか気になるところです。
さや香 が一番のダークホースだけれど、個人的にはどっかで見たことのあるような漫才を勢いでやり直している感じがして新鮮味がなく、あまり好きではないです。
なので 僕は一番破壊力があって、漫才のセオリーみたいなのを無視しているマヂカルラブリーを応援しています。もちろん手数の多さとか技巧的な部分でいうとミキ 和牛 ゆにばーす かまいたち とかには劣るけど、逆に彼らみたいなのが続いた後に来ると映えるコンビでもあります。
 

まとめ

長くなりましたが、まとめると
「予想はできない」
マヂカルラブリーがんばれ」
です。

最後まで読んでくれた方ありがとうございました。

僕は多趣味ではない

僕は「多趣味」って言われることがよくある。友達だけじゃなくても、初対面の人に「なにがお好き?」ときかれて「お笑いをみるのと、映画、小説、音楽聴くのも演劇も好きです」と言うとまあ「多趣味ですね」って言われる。
こんな答え方するからだからかもしれないけど、本当のことを言えば実際 全部同じくらい好き。だからそう答える。よくお笑いが際立って好きって思われがちなんだけど、お笑いが一番コスパ良いから結果的にお笑いを一番観て、そんでお笑いに一番詳しくなっちゃっただけ感はある。好きな度合いはそこまで差がなかったりする。

だからこそ、僕は自分が「多趣味」って自覚はなくて、「多趣味」と言われることに違和感をずっと抱いていた。
とりあえず趣味の言葉の意味を気になってネットで調べたらデジタル大辞泉
「 仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。」
って出てきた。まあじゃあ僕は一応定義的には「多趣味」ではあるのか。

でも「ちょっと待て」と思う。お笑いも演劇も小説も音楽も全て「受信」、いわば「コンテンツ消費」であって 僕はあまり区別をつけていない。もちろんそれぞれの媒体じゃないと伝わってこないものがあるからそれぞれに触れているのだけど、実際自分の行動というか、態度に変化はない。だから僕は「コンテンツ消費」という一つの趣味しか持っていない気がしてならない。
じゃあどういうのが「多趣味」なのかというと、「それぞれ態度が異なるもの」なんじゃないかという考えに行き着いた。例えば、「映画鑑賞と家庭菜園とテニスです」。こういうのが「多趣味」じゃないか?!

コンテンツ消費、生産行動、体を動かすor勝負モノ、とそれぞれの態度がバラバラだ。
もっと極端な例を言えば、「音楽を聴くことと演奏すること」は、触っているものは同じでも「二つの趣味」で、「音楽聴くことと映画観ること」は他のジャンルに触れているようにみえるが「趣味は一つ」なんじゃないか。

趣味の数なんてどうでもいいだろうと思うかもしれないけど 、もし「多趣味」が褒め言葉として使われるのであれば、
僕がいま定義した「多趣味」の方が採用されるべきだ。尊敬されるべきは「あらゆるジャンルにとりあえず消費者として触っている奴」ではなくて「態度を多様に持っている奴」だ。
僕はそう思う。

キングオブコント2017

キングオブコント2017について、
放送前に少しだけ個人的な解説をしてみたい。


今年の出場者は
ジャングルポケット
さらば青春の光
かまいたち
・アキナ
アンガールズ

GAG少年楽団
わらふぢなるお
ゾフィー
パーパー
にゃんこスター
の10組。
個人的に5組ずつ分けました。ぶっちゃけて言うと前半が有名組、後半が無名組です。

まずは前半について。

ジャングルポケット
「去年準優勝だし、今年も準決勝でめっちゃウケてたらしいしもう優勝するんじゃね。」って感じ。
さらば青春の光 と アキナ と かまいたち は賞レース常連組。
さらば に関してはキングオブコント決勝5回目。もうバケモノだと思う。

アンガールズは去年初めてキングオブコントに出場し、今年ついに決勝に来たのでちょっと話題になった。
アンガールズは、超有名なのに単独ライブをやるとチケットがすぐ売れないので「ネタのイメージをつけたい」と出場を決めたらしい。そのために彼らは地下の小さいライブに参加していてお笑いファンからの好感度が高い。
まあどうなるのかなって感じ。



後半。

ゾフィーは「日本一面白いフリーのコント師」と言われていて、コアなファンが多い。ただ僕はあまり見たことがないので詳しく語れない、残念。 

GAG少年楽団わらふぢなるお
の2組はいわゆる「苦労人枠」で、過去でいうところのバイきんぐ や ライス のように、芸人仲間からずっと面白いと言われ続けるも結果が出てこなかった人たち。
過去の例もあるので優勝のイメージがないこともないが個人的には、彼らにはあまり爆発力がないので優勝しないんじゃないかなと思っている。

さて、
パーパーにゃんこスター
2組とも大会史上初の男女コンビであり、
この2組が個人的には今大会最注目のコンビ。
特に にゃんこスター はヤバイ。
「ヤバイ」としか言えないのは放送を見てもらったらなんとなく伝わると思うのでぜひにゃんこスターだけでも見て欲しい。
(ちなみに、今大会一番爆発力があるのは このコンビで、優勝はしなくともツイッターのトレンド入りはほぼ間違いない)

にゃんこスター というのはそもそも厳密にはコンビ ではなく、大会のために組まれたサブユニットみたいなもので、2人は元々はピンで活動している。


男のスーパー3助 は、地下ではそこそこ有名なピン芸人で、フリップネタをする もう中学生だと思ってくれればいい。

女のアンゴラ村長 は 僕と同い年。
暇アフタヌーンというコンビで学生のお笑い界で活躍した後そのままプロになるも、今年解散をしてピンになった、結構かわいい感じの女の子。芸人をやりながらも会社員として働いている。後に説明するパーパーの女の子もアンゴラ村長の1歳年上で、芸人が本業ではなく声優になるために活動しているというから、「新しい世代」という感じがする。

パーパーは、
結成3年目、
23歳と28歳の若手コンビ。
男の星野ディスコ(Perfumeが好きでチョコレイトディスコから取ったらしい)のキャラが強いが、ネタの構成がしっかりしている点が、バイきんぐ を彷彿とさせる。

キングオブコントの公式サイトでは不仲だと紹介されているが、ガチらしい。


さて、10組を紹介し終わったが、
まとめると、

にゃんこスター を 見ろ」
「僕は パーパー推してる」

です。

それでは。

追記
誰が優勝するかはわかりません。
ジャンポケでいいんじゃないですか(適当)

花火とダンス

僕は今年の夏、生まれて初めて花火大会に行った。

もちろん、花火自体は見たことある(あるに決まってんだろ)。

ただ、ディズニーランドみたいな遊園地であがるような「装飾的な打ち上げ花火」は見ても、「花火を見ることそれ自体を目的としたイベント」には行ったことがなかった、ということ。

単純に行く機会がなかっただけで、別に花火が嫌いなわけではない。
でも僕はいつからか花火大会というものに少し違和感を持っていた。
このことについて説明したい。

ちなみに、今年はたまたま友人に誘われて、隅田川の花火大会に行ってきた。今から説明する違和感のために気は乗らなかったけどちゃんと行ってきた。そして花火大会はちゃんと楽しかった。

話を戻して、
僕の花火大会への違和感の原因はというと、言ってしまえば
「花火を見ても『凄い』としか思えない」というところにある。

わからないのである。

きっと毎年花火職人さんは江戸時代から受け継がれている技術で より良いものを作ろうとしているだろうに、「スターマイン*1がどうだ」みたいな、花火の質を細かく享受できないもどかしさがある。

そして
僕はこれと全く同じ感じを「ダンス」にも抱いていることに最近気づいた。
ダンスも、演劇や音楽の中で行われるものとしては楽しく受け入れられるのに、ダンスそのものを見るとなると、「すごい」(あとは「キレがすごい」)くらいの感想しか持てないことをまざまざと感じさせられ、もどかしくなってしまう。
花火を見ても、ダンスを見ても、映画や小説や音楽と違って、「自分の人生や考えに照らし合わせて、自分のなかに落とし込める」というコンテンツの受容がしづらい。

でも、それは僕だけではないと思う。
基本世間一般的に、花火もダンスも、批評が必要なものと見なされていないのだ。現に花火やダンスの専門誌も存在していない。
後ろめたさを感じる必要などないのだと思う。

ただ。

ここでようやく主題に戻ってくるが、
「花火大会への違和感」とは、
「みんなめっちゃ花火見に行くじゃん」
ということだ。

ダンスの方は、
ダンスをやっている人でなければ、「ダンスを見るのが好き」という人は少ないだろう。ダンスの「見る専」なんて聞いたことがない。(いたらごめんなさい)

でも花火はみんな律儀に見に行く。
花見のように「桜というかまあ飲みたいし」みたいな、盛り上がり目的要素も比較的少なく、みんなちゃんと花火を見に行く。
若い人たちはインスタのせいもあるのかもしれないけど、もう「慣習」みたいなものだ。
それでも僕は 伝統的な 祭り と違って その時々の「作り手の意思」みたいなものが花火にはあるような気がしてしまい、そこを完全に無視して夏になったら毎年ヘラヘラ花火大会に行くのに違和感を覚えてしまっていた。

以上が 僕の 花火大会(ダンス)についての意見なのだが、
先日音楽ジャーナリストの柴那典さんがトークイベントで音楽評論について語っていて、同じように「花火は批評が必要だと見なされていない」ことを述べていて驚いた。

彼がなぜ 音楽評論の話題で 花火大会を持ち出したのかというと、
「ロックフェス」をGoogleのトレンド検索機能で調べたところ、トレンドの推移のグラフが 「花火大会」の結果と酷似していたという。そこから彼は「ロックの花火大会化」が起きているのではないかと語った。
つまり、ロック、音楽市場はコンテンツよりもイベントの方が経済的な影響が大きくなっていることで フェス=批評の必要のないもの との見方が浸透してきている、と。

この指摘の重要なところは、これまでの批評は 何度聴いても同じ音楽の「中身」を評論するものだったが、これからはその場限りの、「コンテンツとコミュニケーション」への批評が必要なのではないか、ということを示していることだ。

音楽に関して言えば、フェスに限らず、カラオケで歌われている音楽のデータを見ることで何か社会の風潮のようなものに対して言えることがあるだろう。

そのことを踏まえると、これからは 花火もダンスも、「僕らがどう関わっているか」という視点においては、
充分批評の対象として取り組んでいくべきものなのかもしれない。

*1:打ち上げ花火の種類の一つで、煙火玉や、星、笛等を順序よく配置し、速火線で連結し、高速で次々と連続して打ち揚げるもの。(Wikipediaより)

はじめに

twitterやインスタの更新率がただでさえ高い僕が、ブログまで始めた。

ただこのブログに関しては本当に
ストレス発散や考えを整理するために
作ったものなので
特に気にしないで欲しい。

そりゃあ 多少見られているというプレッシャーを与えた方が 何かとメリットがあるような気がするので 
読まれる前提で書く気ではいる。
特定の友人知人の悪口を書く予定はない(褒めることはあるかもしれない)

とにかく。
要はこれまでtwitterで言いたかったけど字数的に言えなかった愚痴、
をただ発信していくだけなので
是非ともみなさん、
あたたかい目で見守っていて欲しい。

それでは
よろぴこ。

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